したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。
キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
使徒たちは、御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら、議会から出てきた。
人々があなたがたを憎むとき、また人の子のために あなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、 あなたがたはさいわいだ。
それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。
彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。
それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。